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家の亡くなった爺ちゃんが当時青函連絡船 大雪丸の乗務員でした松前丸→ 摩周丸の船員で定年になりました当日は非番で転覆事故の連絡が入って函館駅に職員集合して歩きで七重浜まで向かったそうですよ浜にはまだ息のある乗客も多くこんなに大惨事になってるとは夢にも思わなかったそうです後から聞いた話しなのですが出航しなければならない事情があったらしいです在日米軍将校の乗客と何かそれ絡みの荷物だったそうです戦争から10年近くも経ってるのに米軍の言う事は聞かないとならない状態だったらしいですね天災とも人災とも言える事故だって爺ちゃんが言ってましたよ。
コメントありがとうございます。貴重なお話ありがとうございます。うちの父は遠洋漁船に乗っていて事故当日は気仙沼にいたそうです。事故のニュースを聞いて、あんなに大きな船が沈没するなんて思わなかったと言っていました。アメリカ軍の将校のスケジュールに合わせるために出港したとの話は、昔から結構聞きます。まだ占領軍の言いなりの時代だったので、まんざら根も葉もないうわさでもなさそうな気もします。
確か第一騎兵旅団が乗り組んでいて、出航が遅れると羽田発のフライングタイガース(米軍専用便)に間に合わないからと喚きまくっていたそうです
@@漁師-x4y さん二等航海士が七重浜に上陸して民家のドアを叩いて住民も事故を知ったそうですが、家の主人は瞼腫れるなど傷だらけでずぶ濡れの士官服着た人間が立ってるのを見た瞬間腰が抜けたそうです。後第六真盛丸もサーチライトで海岸照らして漂流者を誘導したり車を見たら信号灯を点灯させていたそうです。
@@ばけさんの災害研究室 さん警察官でさえ遭難者乗せたトラックの運転手から知らせ聞いてもお前嘘つくな!青函連絡船が沈む訳無いだろ!嘘ついたら逮捕するぞ!と言って信じてませんでしたが、運転手がブチ切れて荷台に遭難者いっぱい乗せてるから見ろや!と言って荷台を見せ、その中に二等機関士の姿があるのを見て初めて信じたそうです。
私の父親が高校生の頃のことです。当時は函館の火葬場が町からあまり離れてないところにあったのと、休み無く稼働していたこともあって煙と匂いがすごかったと申しておりました。今は青函トンネルを新幹線が走る世の中になりましたが、洞爺丸の尊い犠牲があってのことですね。
コメントありがとうございます。そんな悲しい経験はしたくないものですね。
直近で函館に行ってきましたので、青函連絡船記念館の見学や、函館山ハイキングと併せて慰霊碑にも手を合わせてきました。また青函連絡船記念館では久田船長の東海丸に触れた掲示物や、土地は違うもののインディギルカ号事件の書籍もあったりとこちらのチャンネルで見たものも多く、なかなかお勉強になっているなと改めて思いました。今後も色々とご紹介ください。
コメント・ご視聴ありがとうございます。月に1回程度の動画Upですが、今後ともよろしくお願いいたします。
私が9歳の時でした岩内の大火は今でも脳裏に焼き付いています
コメントありがとうございます。本来であれば悲惨な出来事として、大きく報道される出来事でしたが、5隻の連絡船沈没の陰に隠れてしまった大火ですね。当時の新聞を見てもどの新聞も一面トップは連絡船事故で、それと比較して岩内大火の記事は小さいものでした。しかし道内の歴史として忘れてはいけない出来事だと思います。
ちなみに、函館の火葬が通夜の前に執り行われるのは、この事故で身元が分かるまでの時間が長くかかり、普通に告別式を終わらせて出棺となると遺体の腐敗が進んでしまうことから、先に火葬したことが始まりとされる説があります。当時の火葬場の能力では全ての遺体の火葬ができないことから、野焼きでの火葬もあったようです。
コメントありがとうございます。やむを得ず野焼きの話しは聞いたことがありましたが、そのような話しがある事は初めて知りました。ありがとうございました。
😢😢😢😮😢😢😢😢😢😢
私は会ったことはないが、遠縁の叔父がこの事故で亡くなっているのだそうだ。私の故郷、弘前でも同じで、先ず荼毘に付し、その後で通夜でした。今では気象衛星で観測できるので、大型船ではこのような事故は殆ど起きなくなってはいるが、それでも走錨で座礁・衝突は度々起きている。洞爺丸台風での沈没事故では、「運が悪かった」と言わざるを得ない事が、幾つも積み重なったと言わざるを得ない。先ずはこの「マリー」と名付けられた台風のコース。当時の観測所から離れた日本海を通ったこと。次いで、九州を抜けた辺りから異常に速度を上げ時速90キロとなり、後に110キロ近くにまで上がった後に、閉塞前線に行手を遮られ、40キロ程度にまで落ちて、北海道に向かってしまったこと。洞爺丸の出港直前に第十一青函丸から移乗させることになり、しかもその直後に数分間の停電が起き、稼働桟橋が動かなくなってしまったこと。その閉塞前線がベテラン船長をも欺いた晴れ間を見せたことと、僅かだが気圧を上げてしまったこと。お話で指摘された七重浜の手前に砂州を作ってしまい、これに捕まってしまったこと。逆に運に恵まれた船が、近くに座礁していた第六真盛丸だったが、通信ケーブルが高波を受け送受信不能状態だったが、しっかり座礁していたので、洞爺丸からの漂流者救助も出来、洞爺丸二等航海士もこの船に救助されている。今では船舶の鋼材も、建造技術も格段に向上している上に、気象衛星も有る。二度とこのような悲惨な災害が起きない事を切に願う。
青函トンネル開通後も本州ー北海道は経済性でフェリーが重宝されていますが安全航行をしてくれるのはありがたい話どうか無事故が続きますように
コメントありがとうございます。私も年に数回フェリーで本州に遊びに行きますので安全運行に感謝しています
洞爺丸はエンジンが故障で停止したのは、激しい浸水で循環水ポンプの電動機が冠水して運転不能に陥り、タービンが潤滑不良で焼き付きを起こしたからだ。異常振動を起こして煙を上げ始めたのは、潤滑油が送られなくなったことで、潤滑不良に陥った証拠と推測。
コメントありがとうございます。私も色々原因を考えてみましたが、何かの補機1台が浸水のため故障し、それがきっかけで連鎖的に危機が拡大していったのだと思います。その最初が潤滑不良なのかもしれないですね。
補機電動機の浸水短絡がこれら青函連絡船事故の決まり文句のようにすらなっていますね。補機電動化は戦前から進められていたとは言え、これらがやや古い船のように全部汽力だったらとつい思ってしまいます。補機電動機の浸水に対する本質的な甘さがあったのかもしれません。
米海軍のLST(戦車揚陸艦)は、座礁に成功したから沈没は回避できたんだよね
コメントありがとうございます。SOSを発信したものの助かっていますね。普通であれば洞爺丸も砂地に座礁したはずなのに、残念ながら堆積した流砂により不幸な状態になってしまいました。
@@ばけさんの災害研究室さん戦車揚陸艦は座礁してナンボの艦なので強引に海岸へ正面から突進してエンジンを掛けっぱなしにしてめり込ませたそうです。乗員と兵士は助かったのですが、艦長は査問委員会に掛けられ、その査問記録は洞爺丸の海難審判で活用されてます。
この動画2年前のものだったんですね。上前淳一郎著『洞爺丸はなぜ沈んだのか』という著書を何度も読み返しました。小説ですから、当たり前で必ず同じ結末なのですが「どこかで洞爺丸は沈没を回避しているのではないか」と言う思いで読んでおりました。
コメントありがとうございます。私も洞爺丸について初めて詳しくしったのは「洞爺丸はなぜ沈んだのか」です。その時に洞爺丸はもちろんですが、その他の4隻の連絡船に興味を持ちました。連絡船動画に時折でてくる黄ばんだ天気図は私が20代前半に購入した文庫本初版「洞爺丸はなぜ沈んだのか」各章扉部分のものです。
当時の海難審判には不満ありますね、担当船長や国鉄側の責任は当時の気象予報の精度に問題があり台風等の自然には勝てないと思います、昔から青函航路はフェリーが欠航しても青函連絡船は動いてました、私も台風が来る直前の便に乗った事がありますが、(確か摩周丸か羊蹄丸)船内の揺れが酷いので食堂と喫茶室は営業休止でした、フェリーと連絡船の後続便は欠航だと船員さんが言ってました、自宅の近くには洞爺丸事件の慰霊碑がありますが。(北斗市七重浜7丁目)
コメントありがとうございます。気象予報の精度については、当時の専門家も正確な認識で問題提起されていました。ただ世論の中に埋もれてしまったようです。
@@ばけさんの災害研究室 さん近年では九州沖通過後に一度衰退して温帯低気圧に変わった後、再発達して強大な低気圧になる、今で言う爆弾低気圧だったと言われてます。
第十一青函丸の乗客を乗せ替える事にしたのは乗客が米軍人、車両も米軍専用車両だったからでもし乗客が担ぎ屋だけだったら第十一青函丸は洞爺丸定刻出港後接岸、そのままテケミと言う決断をしていたと思います。又LST546号も洞爺丸と同じ天候判断で出港してますがこちらはそもそもこの船は座礁させる艦と思い至って対岸の葛登支に強制座礁させて難を逃れてます。こちらの艦長は査問委員会にかけられ何の処置もせず安直に座礁させた職務怠慢であり、助かったのは偶然でしか無い!洞爺丸船長は座礁沈没するまでありとあらゆる努力をして乗客救護に当たった。と断罪されてます。この査問委員会の判決は洞爺丸海難審判の弁護側資料に活用されてます。
実際には洞爺丸台風と言うのは誤り実はこの台風は九州縦断後一旦温帯低気圧になったもののその温帯低気圧が日本海で再発達して九州上陸前より更に発達したもので今で言う爆弾低気圧です。これは1982年の気象学会で初めて発表された事実でしたが、天気図を見ればこれが爆弾低気圧である事は高校地学程度の気象知識しか無い私でもわかります。理由は台風には無いはずの前線があった為。また青函連絡船の避難港は函館港になってましたが(洞爺丸船長が最初着岸テケミ、その後函館港外テケミを決断した理由の一つ)、日本海をやって来る台風には無防備極まりない状況の為、陸奥湾最奥にあって日本海を進む台風に対しては津軽半島が風波とも盾になる青森港に変更されてます。もし青森港がテケミ指定港なら停電が有ろうと青森港まで強行して(まあ船内がゲロだらけにはなるとしても)助かったはず。現に十勝丸は「台風」の中函館港外まで辿り着いてますが、これも青森港がテケミ指定港なら青森港に引き返して貨車下ろして沖出しテケミして助かってます。実際生存者の証言にも「本船(十勝丸)は函館港に向かって航海しつつゆっくりテケミする」と船長がかたっていた、とあります。実際沖出しテケミだと風波がそれ程でもない場合は訪船者も無いし、乗客を乗せている場合「早く出せ!」と言うクレームも抑えられるので乗務員、特に船長や一等士官と言った高級船員は神経が休まるので着岸テケミより遥かに楽、だそうです。実際函館で着岸テケミした石狩丸は綱が全部切れて強制離岸したのですが、当時は軍隊帰りの荒くれ者が多く「死にたく無いなら早よエンジン動かせや」と暖機運転もせずいきなり全速前進されると言う、エンジンがぶっ壊れる危険大(潤滑油が回り切って無い故エンジンが焼き付くリスクが大)な無茶をして助かってます。
コメントありがとうございます。青森で着岸テケミしていた羊蹄丸は仰る通り「早く出せ」とか「船長は度胸がない」などとさんざん言われたそうです。しかし翌日事故のニュースを聞くと「船長は神様だ」と言い始めたそうです。最後の石狩丸の話は知りませんでした。教えていただきありがとうございました。
@@ばけさんの災害研究室 さんカナダ太平洋航空が濃霧の中羽田空港に着陸しようとして失敗した時、日航機も着陸しようとしたのですが、翌日富士山麓で墜落したBOAC機が既に福岡に退避していた事、燃料がまだ豊富にあり福岡や千歳までなら余裕で飛べる事、こんなやばい天候で着陸するのは自分の腕では危険すぎる、ヘタレの下手くそらしく大人しく福岡に退避しよう、として福岡に退避当然乗客はこの下手くそ、なぜ羽田に行かないと騒ぎましたが、税関職員から「羽田空港は事故で閉鎖になった」と聞いた後は震え上がり、翌日元自衛官上がりの同僚から「急ぐのは分かるが富士山付近を飛ぶ短絡ルート(BOAC機が香港に向かおうとして取った結果墜落したルート)は乱気流だから危険」と言われても所定ルートで飛行して着陸、着陸後は機長を拝んだり礼を言ってボールペン渡す者もいたそうで、佐竹室長や小田切機長も事情聴取が出来ず苦労したそうです。ちなみにカナダ太平洋航空機の機長及び副機長は大ベテランの佐竹室長さえヒヨッコに見える超大ベテランでしたがフランス系カナダ人故英語に訛りが多く聞き取りにくかった事もあり情報伝達に齟齬をきたした事と、燃料に余裕がない上に福岡も日航機を最後に駐機スペースが不足した為閉鎖、一番近い伊丹空港はDCー8では着陸困難、台北や那覇は燃料的にたどり着けるかどうか?なので着陸を焦ったのが事故原因の一つに挙げられてます。
昭和27年7月じゃなくて昭和21年7月の誤りでは?(1:30)昭和27年7月だと独立を回復してGHQは解散してるはずなので
コメントありがとうございます。ご指摘の通り昭和21年です。申し訳ありません。
積み替えた原因は十一青函丸が米軍専用便で輸送司令官が本国行きの飛行便を逃したくない一心で強引に部隊を洞爺丸に乗り込ませたから。つまり一番の原因はここ。これが無かったら定刻通り出港して青森には着けていた。
コメントありがとうございます。ご指摘の通り、それがなければ多くの人たちが普通の生活を送れたはずでした。
それでも青函トンネル建設は確定だったでしょうねもちろん、貨物列車専用でですが……。(旅客輸送のみ青函連絡船存続で)
@@kenta-z3e いや、新幹線がらみで貨客対応だったのではないでしょうか。
今なら即欠航になりますね。ただ当時の青函連絡船は北海道と本州を結ぶ唯一の足だったので簡単に欠航は出来なかったのかな?と思います。しかも青函連絡船は北海道の経済を支えていたので欠航になれば経済に影響してしまうので欠航は難しかったのかな?と思います。この頃予報精度もちゃんとしてなかったのかな?と思います。
コメントありがとうございます。返信が遅れ申し訳ございません。レーダーが数か月前にやっと稼働、富士山レーダーは無い状況なので予報精度については仕方がないと思います。洞爺丸の船長は桟橋が2分間停電した時に、一度欠航を決めています。やはり17時前後の疑似好天に騙されてしまったのだと思います。
昭和29年当時、北海道で言われたことわざで「青函連絡船が三日欠航すれば北海道の物価が倍になる」と言われていました。貨物輸送専用の車両渡船の船長で腕に覚えのある船長には多少の天候不良に運航する船長もいたそうです。
@@いとうともあき-g5jさん洞爺丸専属船長はしばしばレーダーを敢えて切って航行させたり、鴎の種類を全部覚えさせたそうですがこれはレーダーも壊れ視界が効かない最悪の状況下、鴎の特徴さえ知ってたらそれを頼りに概略位置がわかるのでそれを頼りにとにかく青森や函館へ逃げ込めと言う教育方針だったからです。故に局内ではどうせアイツの事だから腕試しに嵐の中出て行った結果起こした事故だろと言うものが多く、件の船長が生のニシン齧って血だらけの口元そのままで現れた時にはその場にいた全員が幽霊が出た!と言って小便漏らしたそうで、バカ野郎!俺は幽霊じゃねえ!勝手に殺すな!足もこうやってちゃんと付いとるわ!と言った事で「あ、この船長当日休暇取ってたんだ」と気づいたそうです。
@@古家武史-f5dさま その「ニシン船長」ですが、5年後の昭和34年9月18日に青森発17便摩周丸で気象悪化のため函館に入港できず木古内沖(洞爺丸台風の時に大雪丸が難を逃れた海域)まで避難して18時間掛かって到着した時に乗組・指揮をとっていたそうです。その17便には洞爺丸遭難事故の際、洞爺丸乗船していて帰還した乗船客がいたそうで、勝手に救命胴衣を取り出したりして大騒ぎだったそうです。
海難事故とは別話だがもう少し早く国鉄が青函トンネルを建設して在来線だけでも開業していればこんな事にはならなかったはずだと思う、青函トンネルが開業したのはJR化された後だが、既存の青函トンネルは経年劣化を起こしているしもう1本夜行列車抜きの在来線専用の青函トンネルが必要だと思う、既存の青函トンネルは新幹線専用の札幌延伸だけでなく稚内延伸も視野に入れて
いまだ船の事故は起こっています。悲しい事です。
コメントありがとうございます。知床の事故の行方不明者も早く見つかってほしいところです
函館上空に現れた青空が台風の目であり、台風通過を確信して出航したなら、何故風向きにこだわらなかったのか?台風通過なら風は北北西に変わるはずなのに、出航時にはまだ南南西のままだった。風向きがかわらないのは、まだ台風は西海上にあるはずなのに、何故近藤船長は出航したのか?港外から押寄せるうねりが防波堤で跳ね返り、船尾開口部から浸水したのが致命的だったが、港外で錨泊せず大雪丸同様、踟躊航法で青森に向かえば、万が一にも助かったかもしれないとも言われる。
コメントありがとうございます。「南西の風には涌元に行け」が広く知られていたのなら、早い段階で向かえばあるいは遭難を避けることができたかもしれません。ただ大雪丸と同様に踟躊をした北見丸も沈没しているため、エンジンが健全でなければ、やはり厳しいのではと感じています。
@@ばけさんの災害研究室 さん大雪丸は空だったので決断出来ましたが洞爺丸は1300人の定員、しかも日本人以上に重要な米軍軍人を乗せていたので簡単には決断出来なかったのでしょうね。
@@伊東敏明-j2v さんちゃんと閉塞前線についての知識はあったのですが逆にそれが仇になった様ですね。羊蹄丸側は私の気象知識では全く動きが読めない。よってバカになってここで待とうと待機して助かってます。
時々入る男性の声が何を言ってるのかわからないから途中で諦めました😥
コメントありがとうございます。どの部分かお知らせ願えれば今後改善したいと思います。申し訳ございませんでした。
歴史と多くの犠牲者の事を考えると、この音声非常に安っぽく悲しくなりました。
コメントありがとうございます。今回せっかくご視聴いただきましたのに、そのような思いをさせ誠に申し訳ございませんでした。合成音声(特にゆっくり系)については不快に思われる方もいらっしゃるのでタイトルに【ゆっくり】と表示させていただいておりました。
家の亡くなった爺ちゃんが当時青函連絡船 大雪丸の乗務員でした
松前丸→ 摩周丸の船員で定年になりました
当日は非番で転覆事故の連絡が入って函館駅に職員集合して歩きで七重浜まで向かったそうですよ
浜にはまだ息のある乗客も多くこんなに大惨事になってるとは夢にも思わなかったそうです
後から聞いた話しなのですが出航しなければならない事情があったらしいです
在日米軍将校の乗客と何かそれ絡みの荷物だったそうです
戦争から10年近くも経ってるのに米軍の言う事は聞かないとならない状態だったらしいですね
天災とも人災とも言える事故だって爺ちゃんが言ってましたよ。
コメントありがとうございます。
貴重なお話ありがとうございます。
うちの父は遠洋漁船に乗っていて事故当日は気仙沼にいたそうです。
事故のニュースを聞いて、あんなに大きな船が沈没するなんて思わなかったと言っていました。
アメリカ軍の将校のスケジュールに合わせるために出港したとの話は、
昔から結構聞きます。
まだ占領軍の言いなりの時代だったので、まんざら根も葉もないうわさでもなさそうな気もします。
確か第一騎兵旅団が乗り組んでいて、出航が遅れると羽田発のフライングタイガース(米軍専用便)に間に合わないから
と喚きまくっていたそうです
@@漁師-x4y さん
二等航海士が七重浜に上陸して民家のドアを叩いて住民も事故を知ったそうですが、家の主人は瞼腫れるなど傷だらけでずぶ濡れの士官服着た人間が立ってるのを見た瞬間腰が抜けたそうです。
後第六真盛丸もサーチライトで海岸照らして漂流者を誘導したり車を見たら信号灯を点灯させていたそうです。
@@ばけさんの災害研究室 さん
警察官でさえ遭難者乗せたトラックの運転手から知らせ聞いても
お前嘘つくな!青函連絡船が沈む訳無いだろ!嘘ついたら逮捕するぞ!
と言って信じてませんでしたが、運転手がブチ切れて
荷台に遭難者いっぱい乗せてるから見ろや!
と言って荷台を見せ、その中に二等機関士の姿があるのを見て初めて信じたそうです。
私の父親が高校生の頃のことです。当時は函館の火葬場が町からあまり離れてないところにあったのと、休み無く稼働していたこともあって煙と匂いがすごかったと申しておりました。今は青函トンネルを新幹線が走る世の中になりましたが、洞爺丸の尊い犠牲があってのことですね。
コメントありがとうございます。
そんな悲しい経験はしたくないものですね。
直近で函館に行ってきましたので、青函連絡船記念館の見学や、函館山ハイキングと併せて慰霊碑にも手を合わせてきました。
また青函連絡船記念館では久田船長の東海丸に触れた掲示物や、土地は違うもののインディギルカ号事件の書籍もあったりとこちらのチャンネルで見たものも多く、なかなかお勉強になっているなと改めて思いました。
今後も色々とご紹介ください。
コメント・ご視聴ありがとうございます。
月に1回程度の動画Upですが、今後ともよろしくお願いいたします。
私が9歳の時でした岩内の大火は今でも脳裏に焼き付いています
コメントありがとうございます。
本来であれば悲惨な出来事として、大きく報道される出来事でしたが、5隻の連絡船沈没の陰に隠れてしまった大火ですね。
当時の新聞を見てもどの新聞も一面トップは連絡船事故で、それと比較して岩内大火の記事は小さいものでした。
しかし道内の歴史として忘れてはいけない出来事だと思います。
ちなみに、函館の火葬が通夜の前に執り行われるのは、この事故で身元が分かるまでの時間が長くかかり、普通に告別式を終わらせて出棺となると遺体の腐敗が進んでしまうことから、先に火葬したことが始まりとされる説があります。当時の火葬場の能力では全ての遺体の火葬ができないことから、野焼きでの火葬もあったようです。
コメントありがとうございます。
やむを得ず野焼きの話しは聞いたことがありましたが、そのような話しがある事は初めて知りました。ありがとうございました。
😢😢😢😮😢😢😢😢😢😢
私は会ったことはないが、遠縁の叔父がこの事故で亡くなっているのだそうだ。
私の故郷、弘前でも同じで、先ず荼毘に付し、その後で通夜でした。
今では気象衛星で観測できるので、大型船ではこのような事故は殆ど起きなくなってはいるが、それでも走錨で座礁・衝突は度々起きている。
洞爺丸台風での沈没事故では、「運が悪かった」と言わざるを得ない事が、幾つも積み重なったと言わざるを得ない。
先ずはこの「マリー」と名付けられた台風のコース。
当時の観測所から離れた日本海を通ったこと。
次いで、九州を抜けた辺りから異常に速度を上げ時速90キロとなり、後に110キロ近くにまで上がった後に、閉塞前線に行手を遮られ、40キロ程度にまで落ちて、北海道に向かってしまったこと。
洞爺丸の出港直前に第十一青函丸から移乗させることになり、しかもその直後に数分間の停電が起き、稼働桟橋が動かなくなってしまったこと。
その閉塞前線がベテラン船長をも欺いた晴れ間を見せたことと、僅かだが気圧を上げてしまったこと。
お話で指摘された七重浜の手前に砂州を作ってしまい、これに捕まってしまったこと。
逆に運に恵まれた船が、近くに座礁していた第六真盛丸だったが、通信ケーブルが高波を受け送受信不能状態だったが、しっかり座礁していたので、洞爺丸からの漂流者救助も出来、洞爺丸二等航海士もこの船に救助されている。
今では船舶の鋼材も、建造技術も格段に向上している上に、気象衛星も有る。
二度とこのような悲惨な災害が起きない事を切に願う。
青函トンネル開通後も
本州ー北海道は
経済性でフェリーが重宝されていますが
安全航行をしてくれるのはありがたい話
どうか無事故が続きますように
コメントありがとうございます。
私も年に数回フェリーで本州に遊びに行きますので安全運行に感謝しています
洞爺丸はエンジンが故障で停止したのは、激しい浸水で循環水ポンプの電動機が冠水して運転不能に陥り、タービンが潤滑不良で焼き付きを起こしたからだ。
異常振動を起こして煙を上げ始めたのは、潤滑油が送られなくなったことで、潤滑不良に陥った証拠と推測。
コメントありがとうございます。
私も色々原因を考えてみましたが、何かの補機1台が浸水のため故障し、
それがきっかけで連鎖的に危機が拡大していったのだと思います。
その最初が潤滑不良なのかもしれないですね。
補機電動機の浸水短絡がこれら青函連絡船事故の決まり文句のようにすらなっていますね。
補機電動化は戦前から進められていたとは言え、これらがやや古い船のように全部汽力だったら
とつい思ってしまいます。補機電動機の浸水に対する本質的な甘さがあったのかもしれません。
米海軍のLST(戦車揚陸艦)は、座礁に成功したから沈没は回避できたんだよね
コメントありがとうございます。
SOSを発信したものの助かっていますね。
普通であれば洞爺丸も砂地に座礁したはずなのに、残念ながら堆積した流砂により不幸な状態になってしまいました。
@@ばけさんの災害研究室さん
戦車揚陸艦は座礁してナンボの艦なので強引に海岸へ正面から突進してエンジンを掛けっぱなしにしてめり込ませたそうです。
乗員と兵士は助かったのですが、艦長は査問委員会に掛けられ、その査問記録は洞爺丸の海難審判で活用されてます。
この動画2年前のものだったんですね。上前淳一郎著『洞爺丸はなぜ沈んだのか』という著書を何度も読み返しました。小説ですから、当たり前で必ず同じ結末なのですが「どこかで洞爺丸は沈没を回避しているのではないか」と言う思いで読んでおりました。
コメントありがとうございます。
私も洞爺丸について初めて詳しくしったのは「洞爺丸はなぜ沈んだのか」です。
その時に洞爺丸はもちろんですが、その他の4隻の連絡船に興味を持ちました。
連絡船動画に時折でてくる黄ばんだ天気図は私が20代前半に購入した
文庫本初版「洞爺丸はなぜ沈んだのか」各章扉部分のものです。
当時の海難審判には不満ありますね、担当船長や国鉄側の責任は当時の気象予報の精度に問題があり台風等の自然には勝てないと思います、昔から青函航路はフェリーが欠航しても青函連絡船は動いてました、私も台風が来る直前の便に乗った事がありますが、(確か摩周丸か羊蹄丸)船内の揺れが酷いので食堂と喫茶室は営業休止でした、フェリーと連絡船の後続便は欠航だと船員さんが言ってました、自宅の近くには洞爺丸事件の慰霊碑がありますが。(北斗市七重浜7丁目)
コメントありがとうございます。
気象予報の精度については、当時の専門家も正確な認識で問題提起されていました。
ただ世論の中に埋もれてしまったようです。
@@ばけさんの災害研究室 さん
近年では九州沖通過後に一度衰退して温帯低気圧に変わった後、再発達して強大な低気圧になる、今で言う爆弾低気圧だったと言われてます。
第十一青函丸の乗客を乗せ替える事にしたのは
乗客が米軍人、車両も米軍専用車両だったからで
もし乗客が担ぎ屋だけだったら
第十一青函丸は洞爺丸定刻出港後接岸、そのままテケミ
と言う決断をしていたと思います。
又LST546号も洞爺丸と同じ天候判断で出港してますが
こちらは
そもそもこの船は座礁させる艦
と思い至って対岸の葛登支に強制座礁させて難を逃れてます。
こちらの艦長は査問委員会にかけられ
何の処置もせず安直に座礁させた職務怠慢であり、助かったのは偶然でしか無い!
洞爺丸船長は座礁沈没するまでありとあらゆる努力をして乗客救護に当たった。
と断罪されてます。
この査問委員会の判決は洞爺丸海難審判の弁護側資料に活用されてます。
実際には洞爺丸台風と言うのは誤り
実はこの台風は九州縦断後一旦温帯低気圧になったもののその温帯低気圧が日本海で再発達して九州上陸前より更に発達したもので今で言う爆弾低気圧です。
これは1982年の気象学会で初めて発表された事実でしたが、天気図を見ればこれが爆弾低気圧である事は高校地学程度の気象知識しか無い私でもわかります。理由は台風には無いはずの前線があった為。
また青函連絡船の避難港は函館港になってましたが(洞爺丸船長が最初着岸テケミ、その後函館港外テケミを決断した理由の一つ)、日本海をやって来る台風には無防備極まりない状況の為、陸奥湾最奥にあって日本海を進む台風に対しては津軽半島が風波とも盾になる青森港に変更されてます。
もし青森港がテケミ指定港なら停電が有ろうと青森港まで強行して(まあ船内がゲロだらけにはなるとしても)助かったはず。現に十勝丸は「台風」の中函館港外まで辿り着いてますが、これも青森港がテケミ指定港なら青森港に引き返して貨車下ろして沖出しテケミして助かってます。実際生存者の証言にも「本船(十勝丸)は函館港に向かって航海しつつゆっくりテケミする」と船長がかたっていた、とあります。実際沖出しテケミだと風波がそれ程でもない場合は訪船者も無いし、乗客を乗せている場合「早く出せ!」と言うクレームも抑えられるので乗務員、特に船長や一等士官と言った高級船員は神経が休まるので着岸テケミより遥かに楽、だそうです。
実際函館で着岸テケミした石狩丸は綱が全部切れて強制離岸したのですが、当時は軍隊帰りの荒くれ者が多く「死にたく無いなら早よエンジン動かせや」と暖機運転もせずいきなり全速前進されると言う、エンジンがぶっ壊れる危険大(潤滑油が回り切って無い故エンジンが焼き付くリスクが大)な無茶をして助かってます。
コメントありがとうございます。
青森で着岸テケミしていた羊蹄丸は仰る通り「早く出せ」とか「船長は度胸がない」などとさんざん言われたそうです。
しかし翌日事故のニュースを聞くと「船長は神様だ」と言い始めたそうです。
最後の石狩丸の話は知りませんでした。
教えていただきありがとうございました。
@@ばけさんの災害研究室 さん
カナダ太平洋航空が濃霧の中羽田空港に着陸しようとして失敗した時、日航機も着陸しようとしたのですが、翌日富士山麓で墜落したBOAC機が既に福岡に退避していた事、燃料がまだ豊富にあり福岡や千歳までなら余裕で飛べる事、こんなやばい天候で着陸するのは自分の腕では危険すぎる、ヘタレの下手くそらしく大人しく福岡に退避しよう、として福岡に退避
当然乗客は
この下手くそ、なぜ羽田に行かない
と騒ぎましたが、税関職員から「羽田空港は事故で閉鎖になった」と聞いた後は震え上がり、
翌日元自衛官上がりの同僚から「急ぐのは分かるが富士山付近を飛ぶ短絡ルート(BOAC機が香港に向かおうとして取った結果墜落したルート)は乱気流だから危険」と言われても所定ルートで飛行して着陸、着陸後は機長を拝んだり礼を言ってボールペン渡す者もいたそうで、佐竹室長や小田切機長も事情聴取が出来ず苦労したそうです。
ちなみにカナダ太平洋航空機の機長及び副機長は大ベテランの佐竹室長さえヒヨッコに見える超大ベテランでしたがフランス系カナダ人故英語に訛りが多く聞き取りにくかった事もあり情報伝達に齟齬をきたした事と、燃料に余裕がない上に福岡も日航機を最後に駐機スペースが不足した為閉鎖、一番近い伊丹空港はDCー8では着陸困難、台北や那覇は燃料的にたどり着けるかどうか?なので着陸を焦ったのが事故原因の一つに挙げられてます。
昭和27年7月じゃなくて昭和21年7月の誤りでは?(1:30)
昭和27年7月だと独立を回復してGHQは解散してるはずなので
コメントありがとうございます。ご指摘の通り昭和21年です。申し訳ありません。
積み替えた原因は十一青函丸が米軍専用便で
輸送司令官が本国行きの飛行便を逃したくない一心で強引に部隊を洞爺丸に乗り込ませたから。
つまり一番の原因はここ。
これが無かったら定刻通り出港して青森には着けていた。
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、それがなければ多くの人たちが普通の生活を送れたはずでした。
それでも青函トンネル建設は確定だったでしょうね
もちろん、貨物列車専用でですが……。(旅客輸送のみ青函連絡船存続で)
@@kenta-z3e いや、新幹線がらみで貨客対応だったのではないでしょうか。
今なら即欠航になりますね。ただ当時の青函連絡船は北海道と本州を結ぶ唯一の足だったので簡単に欠航は出来なかったのかな?と思います。しかも青函連絡船は北海道の経済を支えていたので欠航になれば経済に影響してしまうので欠航は難しかったのかな?と思います。この頃予報精度もちゃんとしてなかったのかな?と思います。
コメントありがとうございます。
返信が遅れ申し訳ございません。
レーダーが数か月前にやっと稼働、富士山レーダーは無い状況なので予報精度については仕方がないと思います。
洞爺丸の船長は桟橋が2分間停電した時に、一度欠航を決めています。
やはり17時前後の疑似好天に騙されてしまったのだと思います。
昭和29年当時、北海道で言われたことわざで「青函連絡船が三日欠航すれば北海道の物価が倍になる」と言われていました。
貨物輸送専用の車両渡船の船長で腕に覚えのある船長には多少の天候不良に運航する船長もいたそうです。
@@いとうともあき-g5jさん
洞爺丸専属船長はしばしばレーダーを敢えて切って航行させたり、鴎の種類を全部覚えさせたそうですが
これはレーダーも壊れ視界が効かない最悪の状況下、鴎の特徴さえ知ってたらそれを頼りに概略位置がわかるのでそれを頼りにとにかく青森や函館へ逃げ込め
と言う教育方針だったからです。
故に局内では
どうせアイツの事だから腕試しに嵐の中出て行った結果起こした事故だろ
と言うものが多く、件の船長が生のニシン齧って血だらけの口元そのままで現れた時にはその場にいた全員が
幽霊が出た!
と言って小便漏らしたそうで、
バカ野郎!俺は幽霊じゃねえ!勝手に殺すな!足もこうやってちゃんと付いとるわ!
と言った事で「あ、この船長当日休暇取ってたんだ」と気づいたそうです。
@@古家武史-f5dさま その「ニシン船長」ですが、5年後の昭和34年9月18日に青森発17便摩周丸で気象悪化のため函館に入港できず木古内沖(洞爺丸台風の時に大雪丸が難を逃れた海域)まで避難して18時間掛かって到着した時に乗組・指揮をとっていたそうです。
その17便には洞爺丸遭難事故の際、洞爺丸乗船していて帰還した乗船客がいたそうで、勝手に救命胴衣を取り出したりして大騒ぎだったそうです。
海難事故とは別話だがもう少し早く国鉄が青函トンネルを建設して在来線だけでも開業していればこんな事にはならなかったはずだと思う、青函トンネルが開業したのはJR化された後だが、既存の青函トンネルは経年劣化を起こしているしもう1本夜行列車抜きの在来線専用の青函トンネルが必要だと思う、既存の青函トンネルは新幹線専用の札幌延伸だけでなく稚内延伸も視野に入れて
いまだ船の事故は起こっています。悲しい事です。
コメントありがとうございます。
知床の事故の行方不明者も早く見つかってほしいところです
函館上空に現れた青空が台風の目であり、台風通過を確信して出航したなら、何故風向きにこだわらなかったのか?台風通過なら風は北北西に変わるはずなのに、出航時にはまだ南南西のままだった。風向きがかわらないのは、まだ台風は西海上にあるはずなのに、何故近藤船長は出航したのか?
港外から押寄せるうねりが防波堤で跳ね返り、船尾開口部から浸水したのが致命的だったが、港外で錨泊せず大雪丸同様、踟躊航法で青森に向かえば、万が一にも助かったかもしれないとも言われる。
コメントありがとうございます。
「南西の風には涌元に行け」が広く知られていたのなら、早い段階で向かえばあるいは遭難を避けることができたかもしれません。
ただ大雪丸と同様に踟躊をした北見丸も沈没しているため、エンジンが健全でなければ、やはり厳しいのではと感じています。
@@ばけさんの災害研究室 さん
大雪丸は空だったので決断出来ましたが
洞爺丸は1300人の定員、しかも日本人以上に重要な米軍軍人を乗せていたので
簡単には決断出来なかったのでしょうね。
@@伊東敏明-j2v さん
ちゃんと閉塞前線についての知識はあったのですが
逆にそれが仇になった様ですね。
羊蹄丸側は
私の気象知識では全く動きが読めない。よってバカになってここで待とう
と待機して助かってます。
時々入る男性の声が何を言ってるのかわからないから途中で諦めました😥
コメントありがとうございます。
どの部分かお知らせ願えれば今後改善したいと思います。
申し訳ございませんでした。
歴史と多くの犠牲者の事を考えると、この音声非常に安っぽく
悲しくなりました。
コメントありがとうございます。
今回せっかくご視聴いただきましたのに、そのような思いをさせ
誠に申し訳ございませんでした。
合成音声(特にゆっくり系)については不快に思われる方もいらっしゃるので
タイトルに【ゆっくり】と表示させていただいておりました。